「やってみもせんで、何がわかる」(本田宗一郎):エンジニアの金言集(1)

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日本経済を支えた偉人たち。彼らの残した言葉には、我々ビジネスパーソンの心を打つパワーがある。彼らの多くがこの世を去って20年近くが経過した。しかし、その言葉には古さを感じることなく、むしろ新しさを感じてしまうのだ。

ここでは、日本の経営者・起業家一人ひとりにスポットを当て、珠玉の名言に触れるシリーズを連載していく。第1回は、‎本田技研工業(ホンダ)創業者・本田宗一郎を取り上げる。

本田宗一郎とは…

1906年、静岡県の鍛冶屋の子として生まれる。尋常高等小学校を出ると15歳で上京し、自動車修理業「アート商会」に就職。21歳で「アート商会浜松支店(自動車修理)」として独立し、1937年には「東海精機重工業(ピストンリング製造)」に社名変更。1948年に「本田技研工業(オートバイ製造)」を設立した。設立当時の従業員は20人程度だったという。

1958年、排気量50ccの「スーパーカブC100」誕生。このスーパーカブのヒットに続いて、アメリカに販売会社設立、1959年にはオートバイのマン島レース参戦した。1963年「S500」で四輪車に進出し、1964年にはF1グランプリにも参戦。1972年に初代「シビック」を発売している。

1989年、アメリカの「自動車の殿堂」(AHF)に、東洋人として初めて仲間入り。ヘンリー・フォードと同じ栄誉を受ける。1991年、84歳で他界。

本田宗一郎の名言

「やってみもせんで、何がわかる。」

本田自身、試すことを惜しまなかった。アート商会浜松支店時代、繁盛しているその修理工場を畳んでピストンリング製造を始めようとした。しかし、このピストンリング製造が本田を苦しめることになる。本田自身、「歯をくいしばって、夜中2時、3時まで鋳物の研究に取り組む日が続いた。しかし、仕事は少しも進捗しない。したがって、修理工場時代にもうけたつもりの資金もほとんど使いつくしてしまった」と語っている。そこで本田は、浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)の聴講生となることを決意。夜間のクラスに通うようになる。学問を修めた本田は見事ピストンリングを作れるようになり、わずか4年で従業員が1000人を超える工場を持つようになった。

本田は「発明というものはまず腕を動かすことが先だ」と話している。まずやってみることが大切であり、失敗をしてもそこから新しい論理が開けていくというのだ。既存の論理に縛られると、なかなか新しいことを試すことができなくなる。しかし、手を動かして試行錯誤を続けるうちに、既存の論理の限界を超えて新しい論理が開けていくのである。

それは、常識を疑うことでもある。マン島レースのためのエンジン開発をしていた時、本田はエンジンのベアリングを思い切って華奢なものにしてみるという新しい論理を生み出す。常識的には、ベアリングは頑丈なものを作らなければエンジンは高速回転に耐えられないと考える。しかし、本田はそれを超高速回転エンジンで試すというのだ。結果としてこの試作は成功し、のちに華奢なベアリングのほうが高速回転に適していることも論理的に解明されるのだった。

クリエイティブな仕事を求められることが多い昨今。なかなかアイデアが出てこないことも多いと思う。そんな時、本田の「まずは手を動かせ」という言葉が沁みる。考える前にまずは行動する。そして常識を疑い、180度違う発想をしてみる。失敗しても、すぐに別の方法を試す。元ホンダ社長の河島喜好はいう。本田の商品開発は打率が低く、ホームランか三振だった。しかし、果敢な挑戦を惜しまなかったからこそホンダは大きく育つことができたのだ、と。

参考文献:
『人間の達人 本田宗一郎』(PHP研究所)
『100人の20世紀〈下〉』(朝日新聞社)