「企業は社会の公器である」(松下幸之助):エンジニアの金言集(2)

oldtvPhoto by Alan Klim

日本経済を支えた偉人たち。彼らの残した言葉は、今もなお我々ビジネスパーソンに気付きを与えてくれる。当時とは時代の空気も経済状況も異なるが、しかしながら学ぶべき点は多い。

前回の本田宗一郎に引き続き、今回はパナソニック創設者・松下幸之助の名言を紹介する。

松下幸之助とは

1894年、和歌山県生まれ。9歳で大阪に奉公に出る。彼がエンジニアとして初めて世に送り出したヒット商品は、「二股ソケット」だった。大正時代、部屋の壁に電源プラグの差しこみ口があるような家はほとんどなかった。どの家も、天井からぶら下がった電灯線だけが電源で、ソケットは電球一個のねじ込み式。別の電気製品を使うには非常に不便だった。そこで幸之助は二股ソケットを改良し、それまでの半値で売り出す。これが好評を博し、数か月で月産5000個を記録した。続いて自転車の電池式ライトがヒット。一躍、青年実業家として有名に。

1951年。幸之助は初渡米し、アメリカの大量生産技術を目にする。欧米技術の導入を目指した幸之助はオランダのフィリップス社と技術提携した。折しも時代はテレビ競争真っ盛り。松下はフィリップス社との提携を強め、コストダウンを図った。

その後、70年代のビデオテープレコーダー(VTR)開発競争に突入する。ソニーが先行して発表したベータ方式と、松下が選んだVHS方式の争いだ。幸之助が技術陣に求めたのは、1時間が限度とされていた録画時間を、4時間に延ばすことだった。彼は巨大なアメリカ市場を考えていた。そう、この「4時間」というのは、アメリカで大人気であるフットボールの試合放送時間なのである。

1989年、幸之助はその生涯を閉じる。94歳だった。

松下幸之助の名言

「企業は社会の公器である。したがって、企業は社会とともに発展していくのでなければならない」

松下電器は1952年から白黒テレビの製造販売を行っていた。しかしその高額商品の普及には苦戦していた(1956年時点でも、白黒テレビの普及率は世帯普及率は4.9%に過ぎなかったという)。東芝、日立なども白黒テレビの販売を行っていたが、各社とも横並びだった。

ところが、ある時期を境に、松下電器だけ白黒テレビの販売台数を伸ばすのである。その理由は、松下電器による未開拓マーケットへのアプローチだった。競合他社は、白黒テレビを東京の銀座や都市部の百貨店で販売していた。しかし松下は、地方の農家を一軒一軒訪問してテレビを売ったのである。戦後、農地改革によって多くの小作農は自作農となったが、まだ農家は経済的には厳しかった。しかし、実際にはテレビを買ったのである。幸之助は農家に、潜在的なテレビ購買ニーズがあることを発見したのだ。

あのピーター・ドラッカーも驚いたというこのマーケティング戦略。筋金入りのエンジニア出身である幸之助は、いかにしてこのブルーオーシャンを発見したのだろうか? 幸之助は自著『指導者の条件』のなかで次のように述べている。

「指導者でも指導者としてのカンが必要だと思う。直感的に価値判断ができる、ものごとの是非がわかるというカンを養わなければならない」

カンを養うヒントは、幸之助の「経験を重ね、修練を積む過程で養われていくものだと思う」という言葉、そして幸之助の義弟である井植歳男(三洋電機創業者)の言葉から垣間見える。「義兄(幸之助)は、寝ても覚めても仕事、仕事でね。朝めしを食うていても、晩めしを食うていても、今日どうすればよかった、明日どうすればいいかと、仕事のことばかり考えていた」

もちろん経験を重ねるだけではカンは養われない。常に改善を思考し続けることが、ある日突然生じる「ひらめき」や、是非を判断する直感力を養うのではないかと思われる。

まとめ

松下幸之助の哲学語る上で必ず登場する言葉がある。それは「共存共栄」だ。言い換えれば「企業は社会の公器である。したがって、企業は社会とともに発展していくのでなければならない」という考え方である(パナソニックミュージアム 松下幸之助歴史館 )。ひとつの企業(松下電器)だけが栄えるのではなく、社会もまた栄えていかなければならない。テレビの普及も、都市部だけではなく、農村部を含めた日本全体に普及してこそ繁栄するのだ。上に挙げたエピソードは、この幸之助の哲学を如実に表しているといえる。

参考文献:
『100人の20世紀〈下〉』(朝日新聞社)
『血族の王: 松下幸之助とナショナルの世紀』(新潮社)
『指導者の条件』(PHP研究所)