「考えに考え抜き、未来さえ見えるようにする」(稲盛和夫):エンジニアの金言集(3)

 

ad26344eff5fb442db325328585ad438_s

日本経済を支えた偉人たち。彼らの残した言葉は、今もなお現代に働くビジネスパーソンに刺さるものがある。単なる精神論ではなく、実体験に基づく言葉からは、偉人たちの行動原理や成功に至った背景が垣間見えるのだ。エンジニアの偉人を追うシリーズの3回目。今回は稲盛和夫を取り上げる。

稲盛和夫とは

1932年鹿児島生まれ。鹿児島大学工学部を卒業後、松風工業に入社。1959年に27歳で京都セラミツク(現・京セラ)を設立し、1966年社長就任。1984年には第二電電企画株式会社(現・KDDI)を設立。2010年には日本航空(JAL)の代表取締役会長として日航再建に取り組んだ。

稲盛和夫の名言

「考えに考え抜き、未来さえ見えるようにする」

時は1980年代、第二次臨時行政調査会(土光臨調)にて電電公社(現・NTTおよびNTTグループ)の分割・民営化が答申され、1985年には日本電信電話が発足。同時に、電気通信事業法の発効に伴い、民間企業による電気通信事業への参入も自由化された。稲盛は1984年に第二電電企画(のちの第二電電/DDI)を設立し、電気通信事業に参入。1987年には電波法の改正により、自動車電話・携帯電話も自由化されることになる。1989年には携帯電話会社として「関西セルラー電話」を設立。その後、中国・九州、東北、北海道、北陸、四国、沖縄と全国展開(関東甲信越、東海地方は当時のIDOとのローミングによりカバー)。これが2000年にKDD、DDI、IDOの合併によってIDOとの共通携帯電話ブランド「au」となる。

稲盛の著書によると、80年代に携帯事業に参入した時点で「これからは携帯電話の時代がやってくる。全国民が1人1台携帯電話を持つ時代が、必ず来ると確信していた」という。当時、周囲の人は首をかしげるか、「ありえない」と否定論を展開していた。しかし、実際は稲森の予言したとおりになった。

なぜ稲盛は携帯電話の時代を予測できたのだろうか? 「京セラが手掛けていた半導体部品事業を通じ、技術革新の進展やそのスピードについての十分な情報や知識を持っていた」と自著では述べている。80年代というと、携帯電話といえば「ショルダーホン」と呼ばれた、肩にかけて使う電話だった。このショルダーホンに、革新的なスピードで小さくなっていく半導体が組み込まれれば、いずれ携帯電話も軽量化されていく。それを稲盛は予測していたのだろう。余談だが、「契約料はいくらになるか」「月ごとの基本料金はいくらになるか」「通話料はいくらになるか」という具体的な予測までしていたそうだ。当時の予測と実際に携帯電話サービスが開始されたときの実勢価格と予想を比べてみても、その額はほとんど変わらなかったという。

まとめ

稲盛は「考えに考え抜き、シミュレーションを繰り返せば、未来さえ見えるようになる」とも書いている。最初は「思い」でしかなかったものが、次第に「現実」に近づき、ものごとを達成した状態、完成した形が頭の中に思い描けるようになるまで考え抜く。理想を現実化するためには、「見える」ようになるまで考え抜くことが大切なのである。稲盛はのちに日本航空の再建にも取り組むが、アライアンスの見直し問題(ワンワールドに残留するか、スカイチームに移るかどうか)においても、損得勘定を超えて「自分が『本当にそうだ』と思えるところまで考え抜いていた」というエピソードが残っている。

参考文献:
『稲盛和夫のガキの自叙伝』(日本経済新聞社)
『稲盛和夫 最後の闘い―JAL再生にかけた経営者人生』(日本経済新聞出版社)
『働き方―「なぜ働くのか」「いかに働くのか」』(三笠書房)

(安齋慎平)