4人のベンチャーから世界的IT企業に―、ASUS会長が価格をシャウトする理由

「レディース・エンド・ジェントルマン!! WQHDモデルが799ドル!」

ちょっとテンションの高いアジア版スティーブ・ジョブズ――。そんな風に描写したくなるその男は声を張り上げ、大きな身振り手振りでニコニコと自社製品を紹介し続けた。

これは2015年1月上旬にアメリカのラスベガスで行われた世界最大規模のデジタル系展示会「コンシューマー・エレクトロニクス・ショウ」(CES)での一幕だ。薄型ラップトップPCでタブレットとしても使える「Chi」(氣)シリーズを世に問うたのは、台湾ベースのPCベンダー「ASUS」(エイスース)の会長で、創業時期の初期メンバーでもあるジョニー・シー(Jonny Shih:施崇棠)氏だ。

「Chi」(気)という名前には、Air(空気)よりも軽いというニュアンスが込められていて、MacBook Airへの対抗心むき出しにジョニーは自社製品を世界に売り込んだ。

プレゼンで価格をシャウトする意外な理由

「なぜ価格を全て叫ぶのか?」 「スティーブ・ジョブズになったつもりでいるのか?」

そんな冷ややかな見方をした人もいた。だが、ジョニーがキーノートのような講演で声を張り上げるのには、実は理由がある。

20年以上も前のこと、ASUS製品を世界に売り込むために初めて渡米したとき、英語が苦手だったことから「徐々に徐々に声を大きくして必死に説明せざるを得なかった」、とジョニーはASUSの世界展開の端緒を振り返る。

1989年に創業したASUS(社名は創業時も今もASUSTeK Computerだが、2012年10月からブランド名としての呼び方をASUSに変更している)は、台北の小さなアパートの1室から4人のエンジニアのベンチャー企業としてスタートした。すでにコンピューターメーカーとして地歩を固めつつあったAcerで技術部門を統括していたジョニーは、創業から少しだけ遅れてASUSTeKに参画した。

それから四半世紀。エンジニア4人だけだった会社を従業員2万人、売上高約1兆5700億円(2013年)のテック・ジャイアントに育て上げた。2014年のガートナーのPC販売市場調査によれば、レノボ、HP、デル、エイサーに続いてASUSは世界5位。タブレット市場では世界4位につけている。GoogleのAndroidタブレットの公式ベンダーとしてNexus 7を手がけていることでも知られている。

1990年代はマザーボード専業メーカーとして、「本家」とも言えるインテルを含む多数の競合を向こうに回し、激しい価格競争のなかを生き残った。その後、グラフィックボード、ラップトップ、そしてタブレット、スマートフォンと製品を多角化。多角化と国際展開成功の背景にあるASUSの企業カルチャーとは、どんなものか。知られざるASUS創業ストーリーを、来日中だったジョニーに聞いた。

photo01

施 崇棠(Jonney Shin)
1952年、台湾彰化生まれ。台湾大学電気工学(Electrical Engineering)学科と交通大学経営管理大学院を卒業し、1993年にASUSに社長に就任。就任当時からマザーボードの開発に携わり、品質と革新を信念にこだわり続け、ASUSを140億ドル(2013年)規模のグローバルカンパニーに導いた。2008年に会長に就任。

貧しかった台湾の片田舎で生まれ育った

台湾北西部の鹿港鎮(ろっこうちん)という街で生まれ育ちました。古くて静かな、文化的な良い街です。私が生まれた1952年というのは、国民党が中国から撤退した時代。蒋介石が台湾に逃げてきたのが1949年ですね。われわれは台湾でベビーブーマーと呼ばれてる世代ですが、まだまだ台湾は貧しかったものです。父の月給が4ドルとか、そんなものだったのを覚えてます。

父が日本統治時代のことを面白く語ってくれたものです。たとえば日本のそろばん教師がいかに素晴らしかったか、とかね(笑)。父は台湾のそろばんと暗算の全国大会で優勝したんですが、日本の教師が良かったと。

父はチェスや囲碁も強くて、私も5歳でチェスや中国将棋を覚えました。ただ、父はいつも決して答えは教えてくれなかったんです。そういう父の影響を強く受けて、いまもASUSの社員には「答えを自分で探すことを心から楽しめ、真理の追求を楽しめ」と言っています。科学や技術をやるのは良い成績を取るためとか、学歴のためなんかじゃない。心底好きになれ。そう言っています。

基本的な原理に立ち返れ

photo05中学生のときはすごく勉強を頑張りましたね。とくに数学。中学生なのに微積分をやろうとしていたりしてね。高校生のときには量子力学と格闘していました。どうしてオレには理解できないんだろうかって(笑)

田舎に住んでいたものだから、当時いちばん難しかったのは本を見つけることでした。お金もないから本屋へ行って立ち読みしてね。高校生のときにはエンジニアになりたいとは思っていなくて、科学者になりたかった。ノーベル賞のことを考えていましたね(笑)

大学は国立台湾大学で、電気工学の専攻です。まだコンピューターが全く新しいもので、アメリカから来たメインフレームがあるだけだった。当時の教授や准教授たちは、OSやソフトウェアに詳しかったけど、私にはそれが本当の基礎だと思えなかった。ハードウェアとソフトウェアの両方を、いちばん下のところから理解する必要があると思っていたんです。

大学生のとき、ある高等研究機関に顔を出すことができて、そこにコンピューターサイエンスに強い人がいました。米国に留学して台湾に戻って研究所の所長をやっていた人で、彼はコンパイラ生成器(コンパイラ・コンパイラ)の研究をしていました。すごく刺激的でね、もう普通の授業になんて出たいと全然思わなくなった(笑)

例えば大学ではOSを教えるときに、生徒は部分部分を説明させられるだけ。そんなんじゃダメですよ。いつもエンジニアに言ってるのは、OSを理解したかったら、自分で小さなカーネルを書いてみろということです。プロセッサのスケジューリング、メモリ管理、ページング、いろいろある。そういう基礎に立ち返れと、いつも社内で言ってます。

ASUSは、ここが他社と違います。

基盤技術にものすごく注力しています。なぜならソフトとハードの両方が分かる人がいれば、より強い技術チームができるからです。

ASUSでまだエンジニアの数が少なかったころ、台湾大学の卒業生に片っ端から電話してリクルーティングしてたりしたんですが、その中にこんなヤツがいました。彼はすでに卒業していて予備校の講師をやっていた。私は3日かけて彼を説得してね、キミは塾講師になんかなっちゃだめだって。

ところが、その彼は回路設計の基礎すら忘れていた。だから教え直したんですよ。たとえデジタル回路をやりたいのだとしても、その基礎はアナログにあるので、これを学ばないとダメだって言って。コンピューターはデジタルだけど、実際には下にアナログがある。回路上で、たった1度でもオーバーシュート(信号の上振れ)があったら、それでおしまい。アナログが分からずに、どうやって回路の信頼性を担保するのってね。

多忙な日々、深夜に電磁気学を学び直すことも

photo04私自身も基礎に立ち返って勉強することがありました。もうすでに多くのプロジェクトを抱えて忙しくなっていたときですが、あるとき自分はアナログの理解が足りないと痛感して、電磁気学を夜12時から深夜2時まで毎晩毎晩勉強したことがあります。日中は忙しくて時間がないから、夜しか時間が取れなかったんです。そうやって自分に厳しくする、そういうディシプリンが必要なときってあると思うんですよ。

私にとってロールモデルは「2人のスティーブ」です。スティーブ・ジョブズと、アップル共同創業者でApple IIを設計したスティーブ・ウォズニアック。ウォズニアックの設計は非常に美しい。

ASUSTeKの創業時も、4人のエンジニアがカフェに集まって、小さくていいから美しい会社を作ろうと、そう話したものです。われわれは技術に夢中だったんです。だから、お金を稼ぐことよりも、アメリカ企業と競っても自分たちは勝てる、絶対に勝てる、そのことを証明したい、そういうことで頭がいっぱいだった。

ASUSTeK創業時には私はAcerで技術部門を統率していました。まだAcerもアメリカ市場参入で苦戦していたので、当初はASUSTeKに個人で60%だけ出資して私はAcerに残りました。ASUSTeKに私が加わったのは創業3年経ってからでしたが、台湾にとってもASUSTeKにとっても、よいタイミングでした。PCパーツの標準化が進んで、分業が可能になったのです。それでマザーボード専業でもやっていけると。

「エビとクジラの戦い」と言われたインテル参入の脅威

専業の強みというのがあります。インテルがマザーボード市場に参入してきたとき、彼らは年間3000万個のCPU、2000万個のチップセット、1000万枚のマザーボードを売るということを言っていました。本家とも言えるインテルの市場参入は脅威で、当時台湾のアナリストたちは「これはエビとクジラの戦いだ」と書きたてました。勝ち目がない、台湾メーカーの生き残りは絶望的だと。

でも私には強い自信があった。品質、パフォーマンス、信頼性と、一歩一歩と地歩を固めていってたし、より高い周波数で動作させる「オーバークロック」のようなマザーボードでのイノベーションをやっていたのはわれわれです。結局、インテルは、こういう台湾メーカーのスピードとコスト競争力に勝てなかったんです。台湾メーカー同士でコンポーネント間の不具合解決ができるということもありました。スピード感は今も変わっていません。例えばインテルのAtomを採用するかどうかは1日で決断してプロジェクトを立ち上げました。

私はCPU内部のアーキテクチャについて、チップ設計者と直接話すことができたし、今だってARMのCortexとどうインテルが競争するのかといったことを話せます。Acer在籍時代には当時IBMが286という1世代前のCPUを使っていたときに、386の責任者として「ルックアヘッド・インターリービング」というメモリ設計技術を考えました。こういう技術があったから、インテルの技術責任者だったパット・ゲルシンガーなんかとも仲良くなれたんですね。私はインテルのラボに招待された初めてのCEOなんじゃないかと思います。「お前はいちばん技術を分かってる経営幹部だ」と言われましたね(笑)

photo07

設計ガイドラインに書かれていることが全てではない

1990年代のPC自作市場、いわゆるDIY市場は競争が厳しかった。いろんな種類のメモリやモジュールがあって、そのどれとも上手く動く必要がある。なぜクロストーク(信号混線)が起こるのかとか、外部環境の電波干渉の問題とか、そういうアナログのことも配慮しないと動かない。

競合のデルはインテルのマザーボードを使いました。インテルのマザーボードには設計ガイドラインがありますが、こうした技術資料というのはトップエンジニアじゃないと、ちゃんと読み解けません。どうしてこうなってるんだろうって考えるようなね。

アーキテクチャを本当の意味で理解していないと、テクノロジー企業として正しい決断ができません。内部が分かっていないとベンチマークすることしかできませんし、ベンチマークは、どんな競合企業でもやりますからね。

よく分かっているからこそ、ここまでやっても設計は可能だというラインが分かる。こうした違いがコストに影響します。例えば「熱雑音」は設計上重要な課題です。われわれはマザーボードのグラウンド・プレーンすら使って電力を散らしたりしたんですが、もちろんインテルのガイドには、そんなことはヒトコトも出て来ないわけです。標準的で、教科書のようなことしか書いてない。

教科書なんて大事じゃないと言いたいんじゃありません。むしろ逆です。多くの台湾企業は基礎理論を無視しがちで、アカデミックな話なんて意味がないと言います。理論は大切ですよ。本当に理論を理解すれば、「なぜ」ということが分かるようになって、応用ができるからです。

厳しい現実を真っ直ぐに見て問題に向き合うことだけ

IBMやアップルとの訴訟もあったし、勝ち目がないと言われる熾烈な競争もありあました。2006年ごろのODM戦略では、自社製品のEeePCが売れてしまって逆にパートナー企業のPCメーカーとの関係が悪化するようなこともありました。

でも、やれることは、常に厳しい現実をまっすぐに見てユーザーの問題を解決するということだけです。いま日本の電機メーカーがグローバルで存在感がないと言いますが、日本だとか台湾だとか、そんなのは関係ない。言い訳になりません。中国のBATを見てくださいよ(Baidu、Alibaba、Tencentという中国で急成長中のメガベンチャー3社)。

まっすぐに問題に向き合うことしかありません。問題というのはそう変わっていません。問題を特定して、それを解かないといけない。何を新しくしないといけないか、どうやってやるか。ネットとモバイルが出てきて何を変えるべきなのか。顧客の満足度が最も大切なものです。これは変わりません。

若い人たち、特にテクノロジーでビジネスをする起業家への私からのアドバイスは、考えすぎるなということです。フォーカスして、刃を研ぎ澄ませ、と。技術力ではトップを目指す。そして今の時代はジャンルをまたいでオープンであることが大事なので、基礎的な技術力を磨いてジャンルを越えていけるようになりなさい、ということです。

photo06