まなざしを共有するアプリ「Picsee」は、言語先行のコミュニケーションのあり方を変容させるのか

日々のちょっとした悩みを匿名で投稿する「リグレト」というサービスを知っているだろうか?

同サービスを開発したのが、ドミニク・チェン氏が経営する株式会社ディヴィデュアル。彼は東京大学学際情報学の博士号を持ち、2007年、NPO法人コモンスフィア(旧クリエイティブ・コモンズ・ジャパン)設立理事としてオープンな著作権の仕組みづくりに貢献してきたほか、2008年には情報処理推進機構によって「未踏スーパークリエータ」として認定も受けている。

そんなメディアアート業界/IT業界を横断し、活躍した彼が率いるディヴィデュアルが2014年12月にリリースしたのが、写真を使った新感覚コミュニケーションアプリ「Picsee」だ。

写真から始めるコミュニケーションを前提にする、という新しさがあるとはいえ、多数のカメラアプリが乱立する中「なぜいまさらカメラアプリなのか」と、疑問に感じた人も多いのではないだろうか。ドミニク・チェン氏が「Picsee」を通じて実現したい未来のコミュニケーションとは? 詳しく話を聞いた。

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ドミニク・チェン氏。1981年東京生まれ。フランス国籍。博士(東京大学、学際情報学)。NPO法人コモンスフィア(旧クリエイティブ・コモンズ・ジャパン)理事。株式会社ディヴィデュアル共同創業者。主な著書に『電脳のレリギオ:ビッグデータ社会で心をつくる』(NTT出版、2015年)、『インターネットを生命化する〜プロクロニズムの思想と実践』(青土社、2013年)、『オープン化する創造の時代〜著作権を拡張するクリエイティブ・コモンズの方法論』(カドカワ・ミニッツブック、2013年)。

メディアアートの文脈からITビジネスへ参入

「Picsee」が生まれた背景を知るには、株式会社ディヴィデュアルの創業経緯から振り返る必要がある。同社は2008年4月に、アーティストの遠藤拓己氏とともに設立された。

2人が出会ったのは、2005年。初台にある「ICC(NTTインターコミュニケーション・センター)」でのことだった。当時ICCでキュレーターを務めていたドミニク・チェン氏と、メディアアーティストとして訪れた遠藤氏は、インターネットの可能性にチャレンジしたいと意気投合し、タイピング行為を時間情報とともに記録し再現する「TypeTrace」の開発へとこぎつける。


TypeTrace @Shabi 投稿者 Dividual

「小説家の舞城王太郎さんにお願いして、『TypeTrace』を使って新作の小説を書いてもらったんです。彼がタイピングする文字とキーボードのタッチはすべて遠隔で記録されていて、会場の大きなスクリーンにリアルタイムで映し出され、キーボードのタッチが再現されます。それをお客さんは、ただひたすら眺めている、というインスタレーションを行ったんです。

そこに2日間連続で、ずーっと座って見ている人がいたので『どういうことを感じますか』と声をかけてみたんです。すると『スクリーンで動く文字越しに、舞城さんを感じるんですよ』と言われて。舞城さんは覆面作家なので、どんな人物なのか、そもそも男なのか女なのかさえわからないんですけど、『確かに気配のようなものを感じて、語りかけられているようだ』と言うわけです。裸の付き合いじゃないですけど、誤字脱字とか予測変換とかを見ていると、腹を割って話している感じがするんですよね」

これをメディアアートの作品だけにとどめておくのはもったいないと感じたドミニク・チェン氏。そこで尊敬する鈴木健氏(現スマートニュース株式会社 共同CEO)に相談したところ、「アイデアの筋がいいから会社を作ってみたら」とアドバイスされたのを機に「これはやるしかない」とディヴィデュアルの設立を決意する。

そして設立から3カ月後、スーパークリエータの山本興一氏がエンジニアとして参画。「TypeTrace」のWeb版の開発に着手していた。

そんな中、当時インターンとしてディヴィデュアルに来ていたひとりの女性が、新しいサービスのアイデアとして、とある絵を描いてきた。脳みそがプカプカ画面に浮いていて、そこから吹き出しが出ている。

これを気に入った山本氏が1週間かけて開発。試しにリリースしたところ、田口元氏のブログ「100SHIKI」に取り上げられ、Yahoo!トピックにも掲載。その結果わずか10分でサーバーダウンしたものの、1週間で1万人が登録する人気サービスとなった。

「『リグレト』で投稿を消去することは、あらゆるデータを記憶し続けられるというコンピュータの特性には逆行した設定です。慰めも、他のユーザーからの投稿を待たずとも、“慰めbot”みたいな機能を作れば、自動処理することも考えられるわけですが、技術的にできるからといって、それではダメなんですよ。大切なのはそこにいる人によって生まれる、場の力とか空気感。“裏側に人間がいる”ところに、すべての価値があるんです」

アート文脈で培われた既存のメディアやツールに対するオルタナティヴな視点は、次のサービスの立ち上げにも大いに役立つことになる。

自分のまなざしをそのまま誰かに共有する

「TypeTrace」や「リグレト」の開発を通じて、“人間ファースト”であることの重要性に気がついたというドミニク・チェン氏。そんな同氏が世に送る新たなアプリ「Picsee」は、単なるカメラアプリの焼き直しなどでは、決してない。

当初「カメラロールごと共有する」と謳われ、一部ではiPhoneに保存された写真がすべて自動的にアップロードされるかのような誤解を招いた「Picsee」。だが、その背景にある本質的な意味とは「写真を使ったビジュアルなコミュニケーション」を実現することにあるという。

つまり、これまで当たり前のようにカメラアプリで行ってきた「過去に撮られたたくさんの写真の中から、珠玉の一枚を選んで、必要に応じて加工して、シェアする」というフローを、「いま自分が見ているものを撮って、あなたに見せる」という瞬発的なスタイルへと大きくシフトさせるのだ。

「Picsee」では、写真を撮影したら、送りたいグループを選ぶだけで投稿は完了する。通常のカメラアプリで必要な6〜7つのステップが、「Picsee」を使えば、わずか2ステップで終了だ。よりリアルタイムで、ありのままの感動を伝えられる「Picsee」で撮影した写真を、ドミニク・チェン氏は“デジタルの生写真”と呼び、親しい人たちの“まなざし”を感じられるところが最大の特徴だと語った。

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「『Picsee』では用件がなくてもコミュニケーションが成立するところが、すごくおもしろい。言うなれば、“件名のないメッセージ”。たとえプライベートな空間であっても、テキストメッセージは用件がないと送りにくいし、たくさんの人に見られるソーシャルメディア上では、一緒に投稿するテキストを考えて、“よそ行き”を気取る必要があるけれど、『Picsee』に必要なのは、“相手に見せたい”という本能的な気持ちだけ。無言の写真の後ろにひそむ相手の思いをくみ取ることで、そこから“親密さ”が生まれてくるんです」(ドミニク・チェン氏)

大幅なバージョンアップで解消する“0.1秒の躊躇”

そんな「Picsee」のプロトタイプは、実は約2年前にはすでに完成していた。だが、カメラアプリの常識を覆して、ビジュアルコミュニケーションという新たな文化を生み出すために、一番熱量の高い人たちにエバンジェリストになってもらおうと、コピーライターの糸井重里さんやフォトグラファーの新津保建秀さんなど、親交のあったクリエータの人たちに使ってもらい、フィードバックをもらいながら、アプリの改良に努めてきたのだ。

「もともと『Picsee』は、僕に子供ができて、大量の写真を撮るようになったのですが、奥さんと写真が全然共有できていないという、とってもパーソナルな思いつきから生まれたアイデア。テキストメッセージだと『ごめん、今日残業』『了解』っていう、そっけないコミュニケーションで終わってしまうけれど、『Picsee』で残業中の僕宛てに妻から子供の写真が送られてくると、それだけでちょっとほっこりする(笑)。この言葉を介さない、ちょっとした温度感が伝わることで、親しい人とはもっと親しくなれるし、これから親しくなりたい人との距離も縮めることができるんです。人の目を意識しなくていいからこそ、素の自分を出せるんですよね」

リリースしてから3カ月の間に多くのフィードバックを得る中で、撮ったらすぐに送れるという「Picsee」ならではのメリットとデメリットが見えてきた。自分を表現することに慣れているクリエイティブな人たちにとっては、急速に人との距離が縮まることに対して抵抗は少なかったが、一般のユーザーにとっては「写真を撮る前にどのグループへ投稿しようか」、「こんな写真をいきなりこの人へ送るのはどうかな」といった“0.1秒の躊躇”が生まれていたのだという。

すでに親しい人同士の間だけでなく、これから親しくなりたい人同士の関係にも踏み込んでいきたいという思いから、大幅なメジャーアップデートを行うことにした。

主なポイントは2つ。「グループを選んでから撮影する」という流れから、「写真を撮ってから送りたいグループを選択する」方式へと変更したこと。もうひとつは、「 Facebookでつながっている人とグループを作ることが必須」だった仕様から、「LINEのように電話番号やIDでつながっていれば、グループを作らなくても写真を送れる」ようにした。

「これまでは『グループを作る・グループの名前をつける』という二重のハードルがあったのかなと気づかされて。グループ制をほぼ解消することで、“0.1秒の躊躇”を経ることもないまま、まずは写真を撮れるようにして、後から複数の人やグループへ投稿できるように改善しました」

ほかにも、撮ったら瞬時に相手に送られてしまうという心理的な不安を取り除くために、これまでデフォルトではついていなかった「プレビュー」機能をデフォルトに変更したり、カメラボタンを2回タップすることで「バーストモード」を起動して、撮りためた写真の中から共有したいものを後から選べるような機能も新たに追加した。

「これまでのバージョンはある種のビジュアルコミュニケーションを体験したことがない人にとっては、コンテキストや楽しみ方を知る上で“トレーニング”が必要だったかと思います。今回のバージョンアップで“より自然なビジュアルコミュニケーションの形”に近づけたのかなと思っています。ゆくゆくは「写真を撮る」という言葉さえも透明化させたい。

つまり、僕たちが生きている中で伝えたい気持ちは、どれくらい言葉に置き換えられているのかなって思うんですよ。『あの人にこの景色を見せたい』という、古くて新しい本能。もっと言うと根源的なコミュニケーション欲求に対して、世界で一番最適なアプリにしていきたい」のだと言う。

今後も“人の自発的な欲求を満たすために、テクノロジーが補完する”という、人間と情報技術の良好な関係性について模索していくというドミニク・チェン氏。今回のバージョンアップの後にはAndroidアプリの開発にも着手する。カメラアプリの常識を覆すチャレンジからは、これからも目が離せない。