難病と妻の出産がきっかけ–労務を劇的に効率化する「SmartHR」誕生秘話

会社運営で避けては通れない労務。これまで社会保険労務士(社労士)向けの専門ソフトウェアは存在しても、ユーザー側、つまり会社で人事を担当する人が、気軽に利用できるサービスには有力な選択肢がなかった。そんな中登場し大きな注目を集めているのが、「SmartHR」だ。11月19日に開催されたTechCrunch Tokyo 2015で「最優秀賞」を獲得し、いま波に乗る株式会社KUFU創業者の宮田昇始さんに詳しく話を聞いた。

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TechCrunch Tokyo 2015のスタートアップバトルで最優秀賞を受賞したKUFUの宮田昇始さん


 

ありそうでなかった労務ソリューション

–TC Tokyo2015最優秀賞受賞のニュースを聞いて、そういえば税務・会計のクラウドサービスはあるけれど、労務は盲点だったと膝を打ちました。受賞にあたって審査員からの支持を集めていたように、書類作成業務が劇的に省力化されるわけですね。

労務の手続きって、紙で大量の書類を作成しなければいけないのでものすごく面倒なんですよ。入社手続き1つをとっても、「従業員を社会保険に加入させるための書類」や「扶養家族についての書類」など10種類近くの書類と、それに入力する作業が必要となります。

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入社手続き1つとってもこれだけの書類と作業が必要となる(SmartHR資料より)

たとえば、従業員の社会保険加入に必要な書類の性別欄には「1・2・3・5・6・7」と、性別がまさかの6択になっています。1は「普通の男性」、2は「普通の女性」です。では、3番はなんだと思いますか?

–最近話題のLGBT関連でしょうか……。

正解は……「炭鉱で働く男性」です。このようなトラップがいたるところにある書類が、年間350万回も使われている。これが労務の現状なんです。

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従業員の入社時に必要な書類の1枚。種別(性別)欄には謎の数字が並ぶ(SmartHR資料より)

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正解は「炭鉱で働く人(坑内員)」!(SmartHR資料より)

SmartHRはこうした面倒な手続きをクラウドソフトで自動化しています。ユーザーは「入社手続き」のボタンをクリック、提示されるフォームに沿って入社日や氏名を入力したり、ToDoにしたがってタスクをこなすだけで、業務知識のない人でも簡単に手続きができる。

労務をクラウド化・自動化するだけでなく、会社の規模に応じた機能も用意しています。労務は、会社の成長ステージに応じて必要な事務処理が異なるだけでなく、起業当初、つまり社員10名未満ならば社長、その後30名~50名くらいに組織が大きくなってくると経理や人事の方が、他の業務と並行して労務処理も行うのが一般的です。100名を超えると、労務専任の社員がつき、200名を超えるとその処理を派遣の方が請け負うようになる、といった具合です。

SmartHRは、そのようにユーザーが移り変わっていっても、アカウントを引き継げるようになっています。社長は人事も含めた全ての情報にアクセスできてもOKですが、人事担当者は税務に関する情報にはアクセスして欲しくない、といったニーズにも応えられるようになっているわけです。労務にフォーカスしたことで、優れた体験をご提供できると考えています。

–なるほど、会社が成長してもスムースに使い続けられる、というのは利点ですね。

開発メンバーに現職の社労士がいますので、機能やヘルプは彼女がチェックして間違いがないよう、UIも使いやすいように常に磨き込んでいます。15日間の無料期間(無料期間終了後は、従業員5名未満月額980円、15名未満3980円、その後おおよそ従業員一人当たり400円~)の間に、労務のニーズに応えられることはもちろんですが、チャットを使ったオンラインサポートも含めて使いやすいこと、価格的にもリーズナブルであることも確認いただけるはずです。

WANTEDLYやeurekaさんなど、スタートアップ界隈で著名な企業に加え、既に労務士と契約しているような大企業からの引き合いも増えていています。SmartHRを使えば、これまで社労士さんに作成を依頼していた書類でも、社内ですぐに作成することができます。マイナンバー対応で労務のワークフローを見直す会社が多い中、注目していただいている、という面もありそうです。これまでユーザー100社以上にヒアリングも行っていますが、人事担当者から直接要望をいただく事も多く、ありがたいことに一緒にサービスを作って行こうという意欲をすごく感じますね。私達も、ユーザーさんと一緒にサービスを開発している感覚にすごく興奮しています。

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SmartHRを使用することで、書類作成の期間とコストを大幅に削減できるという(SmartHR資料より)

難病克服と妻の出産から生まれたアイディア

–今年2月にこのサービスが生まれた経緯を教えてください。

会社員だった3年前に、ハント症候群という難病にかかりました。顔面麻痺、聴覚・味覚障害、三半規管麻痺で車椅子生活を余儀なくされたんですね。特効薬はなく、自分の免疫で克服するしかない病気――当時私はウェブディレクターだったので、これでは仕事ができなくなってしまうと途方に暮れました。そんな時、傷病手当金の存在を知り、それを受給しながら2カ月リハビリに集中にできたんです。その甲斐あって普段の生活が送れるところまで回復できたんですね。社会保険のありがたさを痛感した経験でした。

その後、その出来事はすっかり忘れていたのですが、今年2月のある出来事で思い出しました。当時、妊娠9カ月で産休中だった妻が、自宅で自分の産休・育休の書類を作成しているところに出くわしたんです。

妻は社員10名くらいの小さな設計事務所に務めていて、社労士とも契約しておらず、自分で産休などの申請書類を作らなければならなかったんですね。でも、ああいった書類には会社の事業者番号などの記入が必要だったり、専門的な知識がないと分からない項目がたくさんあるんです。役所に聞いても、「それは会社で書いてください」と教えてくれない。出産が迫っていて、妻もかなり大変で、これWeb経由で自動でできないものなのかな……って素朴な疑問が沸きました。

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–freeeなど会計業務については、クラウドを利用したサービスがいくつもあるのに、たしかにこれまであまり無かったのが不思議ですね。ご自身の経験から「SmartHR」へとつながっていった?

高価で専門的な社労士向けのソフトはありましたが、社労士にとっての顧問先である一般クライアント企業向けにソリューションを提供すると、その市場とバッティングしてしまうというのが、既存のプレイヤーが参入しづらかった理由ではないかと考えています。かつ、会計・税務は起業すれば規模に関わらず行う必要がある一方、労務はある程度事業規模が大きくなり、雇用が生じたりしてからの話ですから、新興のプレイヤーがこの分野の課題に気づき、自らの事業化しようという機会があまりなかったのかもしれません――そのあたりが、この分野でクラウド型サービスが出てこなかった理由ではないかと。

ただ私たちが、SmartHRに至るまでも、紆余曲折がありました。2年前に会社を作ったのですが、それからしばらくは受託で食いつなぐ日々が続きました。自分たちの独自サービス――最初はWebクリエイターのスキルをデータベース化して発注者とのマッチングを図れるサービスやその後はB2Bサービスのレビューサイト――を作ろうとしていたのですが、受託で忙しくなかなか取り組むことができない。

–独立したものの、受託で手一杯になってしまって……というのはスタートアップでよく聞く悩みですね。

受託案件には、僕もすごくリスペクトしている会社さんのサイト構築案件などもあって、とても学ぶことが多かったし、「口座残高が10万円を切ってしまった……」といった財務的にも厳しい時期を乗り切らせていただいたりもしました(笑)

しかし、気付けば、全体のうちの1割くらいしか独自サービスにリソースを割けていない。せっかく超優秀な技術者がジョインしてくれているのに、彼の力も活かし切れていない。これではマズいぞ、と思っていたところに、デジタルガレージさんが主催しているスタートアップ支援プログラム「オンラボ(Open Network Lab)」と出会ったんです。電動車いすのWHILLや、フリマアプリの Fril、プログラマ向け情報共有サービスのQiitaが生まれたプログラムですね。

3カ月弱でサービスを形に

–参加されたのはどのくらいの期間だったんですか?

今年の1月からの3カ月間ですね。この第10期プログラムには80チーム以上の申込のなか、私たちも含めて7チームの参加が許されました。オンラボに入っている期間は運転資金やメンターからのアドバイスといったシードアクセラレーションを受けることができますから、それで受託を止め、独自サービスをローンチしようと。それを契機に資金調達を進めようと、大きく舵を切ったんです。

–逆に言えばその3カ月でサービスをものにする必要があったわけですね。

はい。デッドラインとして、3カ月目にサービスのデモをする日があり、そこでお披露目しなければなりません。幸い、「SmatHR」はそこでも優勝することができました。

–その期間中にそれまで暖めていたアイディアを形に?

いえ、実は最初は先ほど述べたB2Bのレビューサービスで参加が決まったんですが、参加してすぐに成長が止まってしまったんですね。ユーザーにヒアリングしてもあまり欲しいサービスだという反応が得られなくて。これはヤバイ、となって(笑)。

–なんと!そうしたら3カ月もない中で、SmartHRが成立したんですね。

B2Bサービスを軸にして方向性を変えないと――となった時に、過去の自分と妻の体験と自分たちが目指していた本質とがパッと交点を結んだ――そんな感じですね。

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人事データベースから生まれる可能性

会社の人事担当者って、どの社労士さんを選べばいいのか、検討するための情報が世の中にはないんです。社労士だけでなく、産業医やオフィス移転の際の不動産業者なんかもそうですよね。

–たしかに。

そこで、マッチングを適切に行うにはまず従業員のデータベースがあれば・・・・・・と考えたんです。従業員数や彼らの状況に応じて、適切な専門家をリコメンドできるはずだ、と。たとえば「従業員一人当たりのオフィス坪面積が推奨値を下回りそうです。御社におすすめの◯◯区の空き物件は・・・」「アルバイトの◯◯さんの正社員化を検討していますか?正規雇用時にもらえる助成金を申請してくれる専門家は・・・」といった具合に。人事情報とB2Bのマッチングは機械学習との相性とも実はすごく良いはずです。

でも、マッチングのためだけにわざわざデータベースに登録はなかなかしてくれません――どうすれば?と思っていたときに、育休・産休の書類に悪戦苦闘している妻の姿が目に飛び込んできたんです。「これだ!!」と(笑)

–なるほど。ここはSmartHRのとても重要なポイントですね。単に社会保険の手続きを自動化、クラウド化して人事の業務効率を上げよう、というだけに留まっていない。その先には、B2Bのマッチングという発展があるわけですね。

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従業員データベースとのマッチングは様々な機会を生む。(SmartHR資料より)

その通りです。ただし、ただバナー広告を貼っただけのようなマッチングはやりたくないと思っています。ユーザーにとってはただ邪魔な広告になるだけですし。私達が取り組むべきは、あくまで、お客さんの課題を解決しつつ、ついでにマッチングもできるという点がポイントだと思っています。

例えば、多くの人事担当者さんは健康診断の予約の面倒さに困っています。病院から候補日の枠をもらい、そこに従業員さんを当てはめる。ようやくスケジュールが組めたと思ったらリスケの依頼が社員からでてきて再調整。さらには「ちゃんと健康診断を受けたか?」のチェックまでしなくてはいけない。想像しただけで面倒ですよね。SmartHRを利用すれば、この面倒な健康診断の予約のやりとりが簡略化され、健康診断を受けたか否かも自動でチェックされ、オススメの病院までサジェストしてくれる。そういう深いレベルでのマッチングサービスを提供したいと思っています。

–これからさらなる資金調達、上場といったマイルストーンも視野に入っていると思いますが、海外展開も想定されていますか?

はい。米国では同様のサービスとしてZenefitsが存在しています。彼らは完全にフリーミアムモデルで、民間保険のキックバックでマネタイズを図っています。B2Bのマッチングを図る、というのはSmartHRと同様ですが、社会保険制度がない米国ならではのモデルですよね。

このように労務は国・地域ごとに制度が異なります。弊社KUFUにはDigitalGarageさんに加え、アジア圏への投資案件を多く手がけるBEENEXTさんも出資に加わっていますが、日本と同様の社会保険制度がある、あるいはこれから整備されるような市場にはSmartHRは参入しやすいと考えています。そういった国や地域では、SmartHRのような民間のクラウドサービスが、e-Gov(電子政府)のインフラたりえる可能性を秘めています。

とはいえ、サービスもはじまったばかりですから、まずは日本での足場を固めて、それから――とは考えていますが。来年末に3000社、再来年末に2万社の契約獲得を目標にしています。

–日本に存在する「労務を必要とする会社」がユーザーとして見込めるとすると、意外と堅実な感じもします(笑)

そうですね。TechCrunch Tokyo 2015 での優勝後は、事業計画の5倍の推移で成長しています。中小企業だけでも490万社存在していると言われていますので、1年以内に1万社程度の規模に計画を情報修正したいと思っています。

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日本のホワイトカラーは世界的にみて生産性が低い、また電子政府の実現が立ち後れているというのも繰り返し指摘されてきた課題だ。「労務の書類作りなど自動化できるところは機械に任せ、採用など人が価値を生めるところに人事に関わる人に注力してもらいたい」と氏は強調していた。SmartHRが会社で働く人の環境作りを、クラウド・マッチングによって効率化できれば、こういった課題の解決に大きく貢献することになるのかもしれない。